史跡・旧跡

史跡

町指定

渋沢平九郎自決の地(しぶさわへいくろうじけつのち)

昭和37年2月14日町指定 大字黒山

 慶応4年(1868)5月23日、飯能戦争に敗れた振武軍隊士の一人が顔振峠を下って黒山村へ逃れてきた。官軍の一隊と遭遇した隊士は、孤軍奮闘後、抗し難きを悟り路傍の岩に座って自決した。その首は越生今市宿に運ばれ、高札場にさらされた。  黒山の村人たちはあわれに思い、骸を全洞院に葬った。一方越生今市宿では、横田佐兵衛と島野喜兵衛が、ひそかに首を法恩寺に埋葬した。名も知らぬ青年隊士を、黒山では「脱走様(だっそさま)」、越生では「お首様」と呼び、不運な境遇に同情したという。
 十数年後、この隊士が振武軍副頭取尾高惇忠の弟平九郎、当時22歳であったことが判明した。平九郎は渋沢栄一の妻千代の弟で、渡欧する栄一の見立養子となり、渋沢姓を名乗っていた。

渋沢平九郎自決の地

旧跡

県指定

太田道真退隠地(おおたどうしんたいいんち)

昭和36年9月1日県指定 大字小杉:建康寺

 文明18年(1486)6月、太田道灌は万里集九を伴って越生の父道真を訪ね、詩歌会を行った。翌7月、道灌は主君上杉定正に謀殺される。この父子最後の対面の場となった、引退後の道真の居館自得軒跡は、大字小杉の建康寺(けんごうじ)付近と推定される。

建康寺と標柱

田代三喜生地(たしろさんきせいち)

昭和36年9月1日県指定 大字古池

 室町時代の名医・田代三喜は、寛正6年(1465)、田代兼綱の子として田代村(越生町大字古池)に生まれた(川越誕生説もある)。
 医業を志して、京都妙心寺や足利学校で学んだ後、23才で明に留学して12年後に帰国した。永正6年(1509)からは、下総(茨城県)の古河公方・足利政氏の侍医を勤め「古河の三喜」とよばれ、関東一円を往来して庶民の治療にも尽くした。

田代三喜の生地

伝山吹の里(でんやまぶきのさと)

昭和36年9月1日県指定 大字西和田

 若き日の太田道灌は、鷹狩りの途中でにわか雨に遭い、蓑を借りに貧しい民家を訪ねた。すると、出てきた娘が黙って一枝の山吹を差し出した。娘の謎掛けが解けなかった道灌は、「蓑がない」悲しさを「七重八重 花は咲けども山吹の 実の一つだに無きぞかなしき」という古歌に託したのだと教えられた。自分を恥じた道灌は歌道を志し、文武両道の名将になったという伝説の故地である。ちなみに、この歌は『後拾遺和歌集』に載る中務兼明親王(醍醐天皇の皇子)の作。
 この付近の小字名は明治9年までは「山吹」で、昔から山吹が自生していた。また、『法恩寺年譜』文明18年(1486)の条や熊野那智大社米良文書の『児玉党名字書立写』の記載により、この近辺に山吹姓を名乗る一族が居たことが知れる。

山吹の里歴史公園

山吹の里歴史公園の水車小屋

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