世界無名戦士之墓 建設の沿革

 昭和20年8月に大東亜戦争が終結し、海外の戦場で戦没された方々は、軍人・軍属で約210万人。戦火に巻き込まれて死亡した一般邦人は30万人で合わせて240万人と言われております。埼玉県においても4万8千人を超える方々が、犠牲となり、収集されたご遺骨のうち交付不能(引取手のない)となった多くの御遺骨が、埼玉県庁の一室に安置されておりました。昭和24年、当時埼玉県議会副議長でありました越生町の医師 長谷部秀邦氏は、これら御遺骨を憂い、講和条約の成立によりもたらされる民主的平和は、英霊の無限の犠牲によるものであり、この犠牲に対し私たちは限りない感謝と敬意を表し、1柱でも供養されない人達があってはならないとの信念のもと、世界の恒久平和を願い越生町の大観山頂に世界無名戦士之墓の建立を発願し、翌昭和25年に世界無名戦士之墓建設委員会を組織しました。そして昭和26年には衆・参両院に建設に関する請願を提出し、同年両院で採択されました。昭和27年には財団法人「世界無名戦士之墓建設会」を組織し、浄財の喜捨を全国に呼びかけ、1,100万円余りの事業費で、昭和27年から建立地の造成に着手し、霊廟は昭和30年8月に完成しました。同年12月8日には、厚生大臣、埼玉県知事ら多数の来賓のご臨席のもと落慶式典が盛大に催され、式典後は防衛庁音楽隊の演奏や西崎みどり社中の邦舞が行われ、夜には、仕掛け花火や打ち上げ花火なども多数あげられました。当時は、国においてもこのような墓の建設計画は無かったため、世界無名戦士之墓は県内出身の方のご遺骨のみならず、広く県外の方のご遺骨も安置でき、世界の英霊をお祀りし、世界平和祈願の殿堂、国の表徴として国賓の方の参拝も考慮されたため、規模も大きく、塔と霊廟が融合したとても凝ったつくりとなっております。現在霊廟に安置されているのは、埼玉県内の交付不能者のご遺骨239柱並びに世界の英霊、各地の英霊のご冥福を願い納められた多くのご位牌などでございます。また県内各地から納められました英霊名簿なども納められております。

霊廟建設中の様子

霊廟建設中の様子

トロッコ

建設中は、道路がなく建設資材はすべてこのトロッコによりふもとから引き上げられました。トロッコに乗車している前列の方は、大沢埼玉県知事(左)と長谷川秀邦氏(右)です。

ブルトーザー

保安隊(自衛隊)のブルトーザーによる造成の様子

完成時

完成当時の世界無名戦士之墓の様子

世界無名戦士之墓の経緯

昭和20年 8月  太平洋戦争終結

昭和22年 4月  長谷部秀邦氏が埼玉県議会議員に当選する

昭和24年10月  長谷部秀邦氏が「世界無名戦士之墓」の建立を発願する

昭和25年 9月  世界無名戦士之墓 建設委員会(44名)を組織する

昭和26年 3月  衆議院・参議院に「世界無名戦士之墓建設に関する請願書」の

         提出をする

昭和26年 3月  参議院において請願が採択される

昭和26年11月  衆議院において請願が採択される

昭和27年 4月  世界無名戦士之墓建設場所(埼玉県入間郡越生町大字越生935番

         地)の整地作業が篤志家、延べ1,800余人の奉仕により行われる

昭和27年 7月  「財団法人 世界無名戦士之墓建設会」が設立認可

昭和27年11月  埼玉県庁より、ご遺骨177柱が越生町に移送される

昭和28年 9月  霊廟の設計監督は、埼玉県土木部の協力を得て、工事費約1,100

         万円余により着手する。工事は当町の柴崎工務店が請け負い、そ

         の他地元の方々の応援や勤労奉仕とアメリカ軍及び保安隊(自衛

         隊)の奉仕活動により行われる

昭和29年10月  埼玉県庁より、ご遺骨が越生町に移送される

昭和30年 8月  霊廟が完成する

昭和30年12月  霊廟の落慶式が執り行われる

昭和40年    道路新設及び改修工事に着手する

昭和45年    道路新設及び改修工事が完了する

昭和47年    参道の階段工事を実施(中央競馬会より助成)

昭和52年 7月  「財団法人 世界無名戦士之墓建設会」を

        「財団法人 世界無名戦士之墓顕彰会」に改める

昭和54年     霊廟の塗装工事を行う

平成 5年     霊廟の改修工事を行う

令和 6年     霊廟の防水工事及び一部塗装工事を行う