世界無名戦士之墓(せかいむめいせんしのはか)

    世界平和を希求する日本国民の意志を具現化した記念碑的建造物

所在地:埼玉県入間郡越生町大字越生935番地(大観山頂)

規模:幅33m、高さ11m

構造:鉄筋コンクリート3階建

床面積:合計272.37平方

1 概要

 世界無名戦士之墓は、埼玉県からお預かりした第二次世界大戦後、埼玉県庁の一室に安置されていた遺族の行方のわからない方、また受け取る方のいない御遺骨など2百余柱のほか、世界無名戦士之霊をはじめ、世界民族の霊、萬國萬霊、ビルマ戦没霊、フィリッピン戦没霊、埼玉県戦士之霊、東京都無名戦士之霊、神奈川県無名戦士の霊、石川縣戦士之霊、越生町戦没者之霊などの位牌、英霊名簿などが納められた霊廟で、越生町の医師で埼玉県議会副議長でありました長谷部秀邦氏の発願により、県内の英霊をはじめ世界の英霊たちをお祀りし、世界平和祈願の殿堂として国、埼玉県または多くの篤志家のご支援を得て6年の歳月をかけ挙町体制のもと、特定の宗教宗派に属さない施設として昭和30年8月に完成いたしました。「無名戦士」とは、名前のわからないという意味ではなく、位階を超越し、一切無名平等にお祀りするという意味でこの名称になりました。

[ENGLISH]

1. Outline

 World Unknown Soldiers Tomb was built to place the ashes of the dead people, around 200 and more, whose bereaved family were not identified and no one had received the ashes. They were once temporally put in a room of Saitama prefectural office. And Buddhist memorial tablet and dead people’s list of world unknown soldiers were also placed in the tomb,where included were the Burmese war dead, Philippine war dead, war dead in Saitama pref., in Tokyo metropolis, in Kanagawa pref., in Ishikawa pref., and in OGOSE town and other war dead of races and nations.

 First proposal to build this tomb was suggested by Mr. Hidekuni HASEBE who was a doctor in OGOSE town and vice chairman of Saitama Prefectural Assembly. He hoped to build the tomb in order to mourn for the numerous war dead and to pray for the world peace. He got to work on Japanese Government and Saitama prefecture and got many charitable supporters. And six years later from his proposal, this tomb was completed in August of 1955. This tomb is not belonged to specific religion. And the understanding of the word "unknown" is not unidentifying the each name, but mourning as the sense of equal ,nevertheless they had various dignity, orders and degrees in this world.

2 慰霊行事

 毎年5月の第2土曜日には、世界平和を祈念し、世界無名戦士之墓慰霊大祭並びに越生町戦没者追悼式を開催しています。

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霊廟内 祭壇

式典

参列者の皆様

新井町長 式辞

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平和の鐘の打鐘

ogosekorasu

越生コーラスの演奏

稚児行列

着付けの様子
稚児行列
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稚児の献花
chigo kenka

花火大会

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霊廟と慰霊の花火

3 ウクライナの国旗色にライトアップ

4 世界無名戦士之墓が登録有形文化財(建造物)に登録されました

 令和元年11月15日に開催された国の文化審議会で答申され、令和2年4月3日付けの官報告示を経て「世界無名戦士之墓」が登録有形文化財(建造物)に登録されました。

 令和2年12月、文化庁から送付された登録有形文化財のプレートを解説板とあわせて霊廟前に設置しました。

登録有形文化財(建造物)とは

 文化財保護法に基づき、保存及び活用のための措置が特に必要とされるものが登録されます。建築後50年を経過している建造物で、次のいずれかの基準に当てはまるものが対象になります。

1 国土の歴史的景観に寄与していること

2 造形の規範となっているもの

3 再現することが容易でないもの

登録有形文化財プレート

プレート解説部分

5 世界無名戦士之墓建設趣意書

shuishobassui

[ENGLISH]

Construction prospectus of World Unknown Soldiers Tomb

 This project is based on the belief to celebrate the conclusion of San Francisco Peace Treaty, to build international goodwill and understanding and to achieve permanent peace throughout the world.

 This project is also executed for democratic japan that paid noble cost and sacrifice to memorialize the bravery and devotion of the war dead of both sides and to keep praying for them as a eternal pattern,appreciating God and Buddha.It will be the most beautiful internatinal friendship for envoys and tourists around the world to visit and pray.

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<世界無名戦士之墓建設趣意書原文>

6 霊園内配置図

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7 世界無名戦士之墓建設の沿革

 昭和20年8月に大東亜戦争が終結し、海外の戦場で戦没された方々は、軍人・軍属で約210万人。戦火に巻き込まれて死亡した一般邦人は30万人で合わせて240万人と言われております。埼玉県においても4万8千人を超える方々が、犠牲となり、収集されたご遺骨のうち交付不能(引取手のない)となった多くの御遺骨が、埼玉県庁の一室に安置されておりました。昭和24年、当時埼玉県議会副議長でありました越生町の医師 長谷部秀邦氏は、これら御遺骨を憂い、講和条約の成立によりもたらされる民主的平和は、英霊の無限の犠牲によるものであり、この犠牲に対し私たちは限りない感謝と敬意を表し、1柱でも供養せられない人達があってはならないとの信念のもと、世界の恒久平和を願い越生町の大観山頂に世界無名戦士之墓の建立を発願し、翌昭和25年に世界無名戦士之墓建設委員会を組織しました。そして昭和26年には衆・参両院に建設に関する請願を提出し、同年両院で採択されました。昭和27年には財団法人「世界無名戦士之墓建設会」を組織し、浄財の喜捨を全国に呼びかけ、1,100万円余りの事業費で、昭和27年から建立地の造成に着手し、霊廟は昭和30年8月に完成しました。同年12月8日には、厚生大臣、埼玉県知事ら多数の来賓のご臨席のもと落慶式典が盛大に催され、式典後は防衛庁音楽隊の演奏や西崎みどり社中の邦舞が行われ、夜には、仕掛け花火や打ち上げ花火なども多数あげられました。当時は、国においてもこのような墓の建設計画は無かったため、世界無名戦士之墓は県内出身の方のご遺骨のみならず、広く県外の方のご遺骨も安置でき、世界の英霊をお祀りし、世界平和祈願の殿堂、国の表徴として国賓の方の参拝も考慮されたため、規模も大きく、塔と霊廟が融合したとても凝ったつくりとなっております。現在霊廟に安置されているのは、埼玉県内の交付不能者のご遺骨239柱並びに世界の英霊、各地の英霊のご冥福を願い納められた多くのご位牌などでございます。また県内各地から納められました英霊名簿なども納められております。

霊廟建設中の様子

 建設中は、道路が無く建設資材はすべてこのトロッコによりふもとから引き上げられました。トロッコに乗車している前列の方は、大沢埼玉県知事(左)と長谷部秀邦氏(右)です。

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自衛隊ブルトーザーによる造成の様子

完成当時の世界無名戦士之墓の様子

8 霊廟完成当時の新聞「週間埼玉」(週間埼玉社)

 昭和30年12月8日の霊廟完成を祝う落慶式の日に発行された新聞「週間埼玉」(週間埼玉社)に「世界無名戦士之墓落慶の悦び」と題し長谷部秀邦氏が寄せたコラム記事がありますので、原文のままご紹介します。

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「世界無名戦士之墓 落慶の悦び」

 世界無名戦士之墓建設会 代表 長谷部 秀邦

 永い間皆様方の絶大なご支援とご激励をいただいた世界無名戦士之墓がお陰をもつて御付託に応え、日本人お互いが戦争の総反省をすべき終戦十年目の十二月八日をぼくして落慶のご報告を申上げることが出来得る段階まで達しましたことは、私自身微力を省みまして感慨あるのみであります。 想い起すことは終戦直後の惨たる祖国の姿・・・マツカーサー元帥の統治下敗北の苦渋の中に唯々として甘んぜざるを得ないお互いが、祖国に殉じた同胞の枯骨が全地球の半ばに達する戦場で風雪にさらされて啾々と望郷のおもいやむことのない姿を瞼に浮かべながらも、為すことなくただ涙を呑むばかりであつた思いは忘れんとしても忘れがたない印象です。あの場合ただ祖国のために後は心配するな、引受けたと旗を振つてこうした防人を送り出したのは日本人ばかりであつたでしょうか。恐らく暗雲全地球を覆う当時、ほとんど世界の全民族がたどつた道であろうことは誰方でも推察さるることと存じます。世界第二次大戦がどういう動機で起り、冷厳な終末に到つたかはそれぞれの民族の立場において彼我色々の論拠はあるのでありますが、人類が地球上至上の存在である以上、私は冷静な理性を基盤とした真理で律することが正しいと信じ、同憂の人達と諮つて友愛精神にもとずき彼我の戦士がひたすらな帰一した目的であつたであろう祖国の為にという共通の精神を憶つて、有名な将師より無名の兵卒軍属に到るまで自己全力を傾けつくして 殉じた崇高無限の犠牲に対し、位階を超越し、一切無名平等に祀り、英霊安息の基地を築くべく世界無名戦士之墓と題して発願したのであります。爾来大方篤志の方々の御共鳴御援助と本県及び政府のご理解に依りまして、現在本県の交付不能の(引取人のない)英霊二百余柱と、終戦後政府が引揚げた各戦域ごとに合葬の霊骨アラスカ、アツツ、ペリリユー、サイパン、グアム、テニアン、アンガウル、ウエーキ、硫黄島、沖縄、宮古島、南鳥島、ガタルカナル、ブーゲンビル、ラバウル、ブナ、ラエ、マダン、ウエワクアインフエハーフエン、ムシユ、ポイキン、ロスネグロス、アイタベ、東部ニユーギニアビスマルク諸島、ソロモン群島で散華された英霊と、フイリツピン未亡人会長ノルマンデー夫人が来朝の際持来されたフイリツピン激戦地の霊士と、ビルマ協会々長モン・シゲル女史の斡旋によりビルマ激戦地の霊士が鎮まつております。皆様の御協力によつて築きましたこのお墓が、今後世界の恒久平和と人類繁栄のための友愛の霊びょうとして世人の大きな仰慕の的となつて英霊の安らかな冥福安息の基地となりますよう切にお願い致す共に、永い期間であつたにも拘わらず変わらない大きな御支援をいただいたことを心から御礼申し上げます。

9 話題・出来事

令和5年2月16日(木曜)大野元裕 埼玉県知事が来訪されました。

霊廟前にて 大野埼玉県知事と新井町長

令和4年9月 大観山に越生10名山の山頂標識を設置(越生町観光協会)

平成30年12月15日(土曜)豊島区・越生町ソメイヨシノ記念植樹祭が執り行われました

 豊島区・越生町相互交流の記念に、豊島区から送られました23本もの立派なソメイヨシノが大観山(たいかんざん)に植樹されました。

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植樹の様子

10 施設の維持管理について

 世界無名戦士之墓は、一般財団法人世界無名戦士之墓顕彰会で管理しております。事務室は越生町役場会計課内にありますので、お問い合わせは、下記のお問い合わせ先までお願いいたします。

地図情報

この記事に関するお問い合わせ先

会計課 会計担当
〒350-0494 越生町大字越生900番地2
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ファックス:049-292-6405
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