名勝

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県指定

越生の梅林(おごせのばいりん)

昭和15年3月31日県指定 大字堂山  

 越生の梅は、九州太宰府から小杉天満宮(現梅園神社)を分祀した際、菅原道真にちなんで梅を植えたのが起源であると伝えられている。梅園神社に遺る棟札から、太宰府天満宮と深いつながりがあったことがわかる。
 太田道真・道灌父子が越生の梅を愛でたであろうことも、心敬、宗祗、万里らとの交友からみて想像するに難くない。江戸時代、梅は商品価値を持つようになり、盛んに栽培されるようになった。
 所沢に住んだ地誌研究家の斎藤鶴磯は、文化12年(1815)、『武蔵野話』に「川の両岸も畑も山麓も人家も一めんに白梅花にして香風鼻を衝き、実に仙家にいたりし心地せり。建康寺の境より眺めばその景色たとへんかたなし。かゝる勝地あるをしらざる遺恨かぎりなし」と記した。
 明治になると観光地として注目されるようになり、明治33(1900)年には地元有志らによる「古梅林保勝会」が結成され、会の事務所「魁雪亭」が建てられ、観梅客の休憩所や貸席として利用された。多くの文人墨客の杖を曳くところとなり、新月ヶ瀬豊楽園梅林と命名された明治34年(1901)には、歌人で国文学者の佐佐木信綱が来遊し、「入間川高麗川こえて都より 来しかひありき梅園のさと」ほか二首をのこした。

 自然主義文学の代表作家、田山花袋も幾度か足を運び、紀行文『秩父の山裾』(大正8年<1919>発行)に、「静かで、鷹揚で、のんびりしてゐる形は、関東の山とはちょっと思はれない」と印象を記している。
 昭和17年(1942)には大字堂山字前川原を中心とした約2ヘクタールの地域が、埼玉県指定名勝となった。昭和30年に梅園村が越生町と合併して以後は、「越生梅林」と改称されて現在に至っている。

越生の梅林

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