江戸幕府は往来の激しい町や村の入口や中心部などの目立つ場所に、法度や掟書などを記した板札(高札)を掲げることを定めた。
この地方の政治経済の中心地だった「越生の今市」の高札場は、下町(現本町)の、この辺りにあった。文政11年(1828)の『新編武蔵風土記稿』には「高札場 下町の内にあり」「下町 宿の南の入口なり 是より下 河原宿迄街道に係れり」とある。
慶応4年(1868)5月、飯能戦争で官軍に敗れ、黒山で自決した振武軍の参謀、渋沢平九郎(渋沢栄一の義弟)の首が晒されたのは、ここの通り向こうである。
現在の越生町域に相当する17ヶ村にも、それぞれ高札場が置かれていた。大字龍ヶ谷(旧龍ヶ谷村)の秩父往還飯盛峠の登り口には、「札場」と呼ばれる地名がのこっている。